粥村で聞いた話

鳥を見たり見なかったり食べちゃったり

岬(中上健次)

中上健次の作品を読むのは、これが初めてのことだ。しかも中上健次という人も、この岬という作品についても、ほとんど何の予備知識も無い。彼の代表作であるなんたら三部作の第一弾で、芥川賞作品であることくらいだ。
だが、であればこそ、先入観ゼロで読んでみるという体験が出来るのだから、それを楽しんでみることにした。その結果……。

 

そもそも、なぜ中上健次に手を出してみようと思ったのか。それは、ピエール瀧の件でまたもやメディアがクソッタレな事を騒ぎ立てていたから。
犯罪を犯した人と、その人が出演する作品は全く別のものだ。そんな当たり前のことを無視した騒動が、いつまでも、何度でも繰り返して起きる、この馬鹿げた世の中。
そんなもん、とうの昔に結論が出てただろ?
そう、アレだよ。永山則夫の件だよ。
 
そして永山の本を読もうかと考えたが、ふと、
「いや待てよ。たしか永山の件で筒井(ワタクシは若い頃から筒井を人生の師と考えています)と一緒に文藝協会を辞した人物が何人かいたよな?」
と気にかかった。
そこでググってみると、それが中上健次であり柄谷行人だった。
中上は紀州に根ざした物語群を書いた、という。おお、じゃあもしかして、参観灯台のひとつである潮岬灯台に行く前に読んでおいたらいいことあるかも。
 
というわけで、中上健次を、しかも予備知識ゼロで読み始めたわけだ。
だが、これがなかなかの苦行。そもそもこの短編集に含まれる一つ一つの作品同士の立ち位置が分からない。そして方言がまた、なかなか(ワタクシにとって)難しい。
いつもと勝手が違う読書に困惑しながら、2週間かけてこの短編集を読み終えた。
 
読んでみて思うことは、人間、短い文を読むだけでも、解説無しに方言をだんだん理解するものだな、ということ ^^;
文脈があるので、だんだん分かってくる。最初は見当も付かなかったイントネーションすら、だんだん(こうだよな?)というレベルに落ち着いてくる。これは普通の読書とは関係ないが、面白かった。
 
そうやって徐々に中上世界に馴れた上で、この短編集最後の『岬』である。さすがに、これは面白い。どこがって言うわけでは無いんだけど(いや言えよ!)、まさしく純文学だな、と言う気がする。純文学が何であるかをざっくりとも理解していないのに。
そして読み終わってから、中上がどういう人物なのか、ウェブでさらっと調べてみる。
なるほどねぇ。岬は彼の実体験に、かなりの部分で結びついているんだね。それがあのリアリティを生むのか。そして、全く結びつくことも無かったここ最近の愛読書である伊坂幸太郎の作品群とも、自分の街に根ざした文学、という目線では同類であることに驚く。
 
思えば伊坂がワタクシにとって入り込みやすかったのは、その言葉の平易さや年代の近さなどだけでは無い。伊坂作品が多く仙台を舞台としており、ワタクシの息子が伊坂の大学の後輩に当たり(学部は違うけど)、仙台で暮らしていたことがあるので、なんだか必要以上に感情移入してしまうのだ。
 
ということは、アレだ。新宮とか熊野方面にも仙台と同じくらい通えば、きっともっと中上作品に嵌まるに違いない!
 
などと考えながら、次の中上作品である枯木灘を読み始めるのであった。
 

 
ううん、作品と関係ない話に終わってしまった。
悔しいからワタクシなりの純文学とは何か、何が純文学なのか、的なイメージを開陳しちゃう。
 
セックスと死と悩み。
この3つが描かれていれば純文学だと思うんだよね。思うだけだけど。