粥村で聞いた話

鳥を見たり見なかったり食べちゃったり

アイネクライネナハトムジーク

映画化されると知ってから丸々1年待って、ついに観てきた。アイネクライネナハトムジーク。自分にとって、なかなか思い入れの強い小説であり、ベリーベリーストロングは大好きな曲だ。こういう場合、得てして映画にガッカリさせられそうなものだが……。
結論から言うと、これはDVDなりBlu-rayなりで買わなくてはならない映画だ。

 

今さら伊坂幸太郎斉藤和義の関係について語るのも野暮なので、そこは割愛。
原作は6編の独立した、それでいて関係性の深い作品からなる短編集なのだが、映画の方は6編のうち、アイネクライネとライトヘビー、そして短編集のエンディングに当たるナハトムジークをまとめた感じで、そこにルックスライクの一部分をアレンジして織り込んだ感じ。
ドクメンタとメイクアップは、バッサリとカットされている。もちろん、原作の映像化に留まっては映画化の意味がないので、こういうカットは当然のことだろう。
ただ、ワタクシ個人はドクメンタにおける藤間と子連れ女性の絶妙な関係がとても好きなので、残念なことは残念だ。

 どうしても原作をベースに見てしまうわけだが、例えばかなり場面や人物を変えてはいるものの「誰の娘さんだと思ってるんだ作戦」をちゃんと3回繰り返したのはナイスだ。

 また原作で由美が美奈子の質問に応えて言う
「うまく言えないけど、あの旦那とわたしと子供たちの組み合わせがね、わたしは結構好きなんだよ」
という台詞が、ちゃんと使われているのも良かった。

ウィンストン小野の世界再挑戦が、もしかしたら、万が一、そんなことはないと思うが、ご都合主義で勝利に終わってしまったらどうしよう……などと気を病むこともあったが、そんなことはなく、ちゃんとゴングが鳴ってから倒していた。
元いじめられっ子の少年が学に活を入れるために折ったのがボードではなくて枝だったが、むしろラウンドボーイなんていうヘンなものを見せられなくて良かった ^^;

斉藤さんはCDラジカセではなくてギターとハーモニカで同じ曲を演奏し続けたが、これはむしろ映画的にはいい変更だろう。時代が変わっても同じ格好で同じ曲を歌い続ける斉藤さん、まるで妖精の一種のようだ。
息子1号が住んでいたために家族で何度も通った仙台のペデストリアンデッキが舞台なのも、我々夫婦にとっては特別な映画という感覚を強くさせられた。もちろんそういった面も、自分にとって伊坂が特別な作家である理由のひとつなのだが。

そして(一体どんな場面でかかるんだ……)とワクワクしながら待っていたベリーベリーストロングが、静かなインストゥルメンタルでBGMとしてだけ使われたことには少々驚いたが、そのBGMにかみさんが気づかなかったことに、息子たちと揃って大いにずっこけた。

ベリーベリーストロングに代わってこの映画の主題歌となったのが『小さな夜』。劇中の斉藤さんがギターで延々歌うのが、この曲だ。タイトルから分かる通り、この映画のために作られた。
どこにでもある恋愛の物語、というこの小説とこの映画の背骨を歌にしたもので、
「ねえ、なんで私たち一緒にいるんだっけ……」
という劇中での多部ちゃんの台詞が胸に響く。
こだまたいちさんには申し訳ないが、斉藤和義の声で聴くと、ますます涙腺を刺激される。
帰ってから、サントラ丸ごとポチって、現在ヘビーローテーション中だ。

 

何故か英語になっちゃうけど、 実際には日本語だし、たしか1,300円だったよ?

 

最初に野暮だから割愛すると言いながら結局書いてしまう。
歌い手が作家に歌詞を依頼して、作家は歌詞の代わりに小説を書き、その小説を元に歌うたいが曲を作り、またその曲を元に小説の続きを書き、その小説たちが映画になり、映画のためにまた歌を作る。もうこの一連の流れ自体が物語だというしかない。

伊坂がサラリーマンを辞めて作家一本で生きていくと決めたのが、斉藤の『幸福な朝食 退屈な夕食』を聴いたことがきっかけというのは有名な話だし、その曲を映画『ゴールデンスランバー』のエンディングでも使っている。
この二人の関係、普通ではない。今後とも、何かやってくれるはずと期待して待つことにしよう。

ううむ。映画の感想を書こうとしたのに、実際に書いてみたら半分以上が原作や曲への、あるいは作家と歌い手へのモノローグになってしまっているが、しかたがない ^^;

 
ところで、映画が始まる前に「ついにこの映画を観られる!」という意味のツイートをしたのだが、映画館から出てスマホの電源を入れると、一人いいねしてくれているようだったので誰かと思ったら、なんと今泉力哉監督でした ^^;