粥村で聞いた話

鳥を見たり見なかったり食べちゃったり

仙台ぐらし

仙台ぐらし

集英社e文庫

仙台ぐらし

はじめに

この部分はワタクシの前置きで、伊坂作品の一部に関する物ではありません。念のため。

久しぶりに読書のエントリ。長いです。とても読んでくれと他人にお願いしてよい長さでも内容でもありません。

読後感でも個人的解説でも、ましてや書評なんかではなく、ワタクシ個人が読書しながら戯れ言を書き殴る、読中メモです。したがってまとまりはなく、誰かに何かを伝えようとする姿勢すら有りません。と精一杯にまず、逃げ道を作っておきます。悪しからず。

 

タクシーが多すぎる 2005.6.25

2005年の仙台、規制緩和の悪影響でタクシーが余りまくって大変らしい。挿絵は駅前に何列にもなって客待ちの列が進むのを待つタクシーの大渋滞の写真。
今まで読んだことが無い感じ。とりあえず小説ではなく、むしろ日記。いや日記風のエッセイ。そんなことも知らずに読み始めている。

過去からのタクシー運転手との会話を次々と繰り出した挙げ句、それらの話を、いま、乗っているタクシー運転手に開陳していた、という展開。さすが、ミステリー系の人だ ^^;

 

見知らぬ知人が多すぎるI 2006.4.10

やはり日記風の内容。事実に基づいているようだが、その事実が主題ではないので、やはりエッセイだ。
今度は見知らぬ人との関わり合いか。まだ作家としてスタートを切った頃、本屋のレジの列で自分の前にいた年配の人が、オーデュボンの祈りの会計をしていた話などは興味深いが、掘り下げてくれてはいない。掘り下げようがないか ^^;
伊坂氏もなかなかに自意識過剰な面を見せている。有名人の宿命だろうか。ワタクシだっておそらくもう、伊坂の作品のうち半分程度を読んでいると思うが、街でばったり会っても伊坂氏と気づくかどうか、自信は無い。

 

消えるお店が多すぎる 2006.7.14

一連のチャプタータイトルの書き方からして、この作品は何か、おそらくは仙台のタウン誌のような地元の媒体に連載した物なのだろう。とか言いつつ、調べない。
ミルクコーラの話が出てくる。文系講義室のそばの小さな喫茶店、と書かれている。息子1号の話では文学部の生協、的な話だった。結局、一度も入れないままだったから、真相は知らない。ただ、ミルクコーラ自体は連綿と受け継がれていたようだ。知らんけど。
伊坂氏は学生時代、友人とたった一度、回し飲みをしただけだそうで、二度と頼まないだろうという感想だったようだ。息子1号の話では結構な人気メニューだったようだが。息子1号と伊坂氏では20年と少しの差があるから、その間に微妙な製法の違いが見いだされたのかもしれないし、世代感の好みの差かもしれない。知らんけど。
しかし伊坂氏の疑念をよそに、ミルクコーラは無くならなかった。そして作中にもあるが、わざわざ10年ぶりにミルクコーラの存在を確認しに行った伊坂氏は、既にスター的な存在になっていたミルクコーラに再会する。
この文章のタイトルからおよそ7年か8年後、ワタクシも何度かこのミルクコーラなるものを求めて文学部方面に足を運んだのだが、そのたび失敗に終わっている。なぜならワタクシが仙台の息子1号の元を訪れるのは決まって休日であり、生協が休みなのだ ^^;
考えて行動すべきだったが、ミルクコーラのために有休を使うところまでは行かなかった。しかしいつの日か、という思いは今でもある。仙台に行く機会はほぼ無くなっているのだが。

 

機械まかせが多すぎる 2007.1.31

クルマの買い替え話から。軽のマニュアル車を探す。
世の中が機械任せの方向に進んでいることを嘆く伊坂氏。しかしパソコンを落下させて1ヶ月分の仕事が消失し、サルベージ会社でなんとか復旧させることに成功したものの、そこで精神を磨り減らして、結局軽自動車でもマニュアルでもない可愛らしいクルマに乗り換えるw
時期的に、これが『ガソリン生活』の緑デミに関係しているのではないか、とか勘ぐってしまう。違いますかね?

 

ずうずうしい猫が多すぎる 2007.11.29

庭を猫が通る。
初めは気にならなかったが、庭にフンをされる。これで少々考えが変わりかけたのだが、叱りつけることには罪悪感があるらしい。
10代の頃、実家で猫を飼っていた。ちなみに犬を飼ったことはないらしい。
伊坂氏は空を飛べるはずのカラスがぴょこぴょこと庭を歩いている時の小憎らしさと比べれば、猫が歩くことくらいはたいしたことがない、と感じるようだ。
これには全く同意できない。猫はウチの庭にネズミを置いていくのだ。カラスはそれを拾っていくに違いない。もしかするとそのシーンに出くわしたことがないだけで、既に本当に起きているかもしれない。これまでに6回、ネズミを置いていった(うち1回は未遂)近所のF氏が、最近ネズミを置いていかなくなってきているのも、実はカラスが仕事をしてくれているのかもしれない。
早朝、電柱で生ゴミを狙って待っているハシボソガラスを見つける度に、「ボソくん、おはよう」と声をかけているのが奏功しているかもしれない。知らんけど。

 

見知らぬ知人が多すぎるII 2008.7.18

これはちょっと面白い体験をいくつか挙げ、伊坂氏の自意識過剰な面とさすが小説家と思わせる発想力の両面を覗かせてくれる。普通の人よりもヘンな人との遭遇率が高いように思えるのは、おそらく彼の日常がサラリーマンの生活リズムや環境とかけ離れているためだろう。
最後のにこやかな若者なんて、結局は押し売りの類いなのだろうが、妙に既視感がある。彼から得たヒントが、いずれかの小説の登場人物に投影されているんじゃなかろうか。
そういえばワタクシも妙なヲジサンと出くわした。今年の1月、場所は駒沢公園。少々別行動になったかみさんを待ってベンチに腰掛けていたとき、通りかかったヘンなヲジサンに声をかけられた。
彼はワタクシが連れていたまおを見て、
「あ、パンダ?」
と問いかけてきた。
白黒の犬を見て、気の利いたジョークを言ったつもりなんだろう、と思ったが、極めて普通に答えた。
「狆です」
彼はそれを聞いてやや大袈裟に頷きつつ、
「そうだよね」
と言ったが、次の瞬間真顔に戻り
ホルスタイン?」
ワタクシは目をそらして、二度と彼を見なかった。

 

心配事が多すぎるI 2009.2.10

明日宮城県沖地震が来るらしい、そう床屋に言われた伊坂氏はもちろん、信じないわけだが、その後の文章が恐ろしい。
いずれ来ることは間違いない。2015年あたりに来る、そうでなくとも2020年までにはかなりの確率で、と書いているわけだが、承知の通り2年後には起きてしまっている。
レンジャーショーの悪役に、本物が混ざっているかもしれない、という恐怖を子供の頃の伊坂氏は持っていたらしい。その恐怖、形をもっとずっと恐ろしく巧妙に変えて、ワタクシたちに売りつけてますよねぇ ^^;
買うけど。
伊坂氏は小学校低学年の頃、事件に巻き込まれて死んでしまうのではないかという疑念に苛まれ、眠れなくなったという。
ワタクシの場合はそんな現実的なことではなく、いずれ死ぬんだということだけで恐怖して、同じように小学校1年か2年生の頃、毎晩布団に入ったりそこから飛び起きたりして眠れないことがあった。そしてなぜ他の人はそれが怖くないのだろう、なんで平気な顔で暮らしていけるんだろうと不思議でしかたなかった。未だにその謎は解けていないが、感覚は鈍くなって恐怖を感じにくくなってしまったらしい。
大きめの地震があったとき、伊坂氏はトイレに入っていたらしい。エッセイの時期から考えて、2008年6月の内陸地震のことだろうか。この時、氏はトイレに入っていて、おそらくトイレは一番安全だからと安心するもつかの間、その後に「あなたは私たちのことを放って一人で一番安全なトイレに閉じこもっていたのね」と非難されるのではないか、永遠に言われ続けるのではないか、と恐れたそうだ。
一方でワタクシはその2年後、例の大地震の日に地震の後、社員旅行を強行した。そして「息子2号が中学校から帰れずに寒い体育館で一夜を過ごしたのに、その時温泉宿で酒を飲みながら過ごしていたよね」と言われ続けている。おそらく、永遠に。

 

心配事が多すぎるII 2009.5.28

空に飛行機の音がするのを聞いて、そこから核兵器が落ちてくる心配をするのはさすがにどうかと。
新聞紙面に「北朝鮮、核小型化成功か」「G軍、選手若返り」という2つの見出しが同等に並んでいることに、氏は頭を抱える。このあたりには深く同意する。新聞社、なに考えてんだ、ということではなく、これが日本の現実的なスタンスなのか、という困惑だ。信じられない。全くだ。ワタクシの周辺の多くの人がこちらサイドの感覚だと思っているが、しかし新聞が同等に扱うということは、ワタクシたちが異質なのかもしれないとも考えられ、その事に苛立つ。もしかするとこの状態こそが誰かの陰謀なのかもしれないが。

 

映画化が多すぎる 2010.5.28

これは自身の作品に対する話なのだろう。と読み始める。
やはり、まずはゴールデンスランバーの話だ。喫茶店で話す女性の「○○が出るんだって。あと、○○」堺さんのことでなければ、亡くなってしまった女優と、捕まってしまった俳優のことだろうか。
続いて重力ピエロとアヒルと鴨のコインロッカーの話だが、実はワタクシ、どちらも観ていない。もちろん本は読んでいて、どちらも気に入っている。いずれ映画も観ようとかみさんと話してはいるのだが、どこかのミニシアターで伊坂作品を12時間ぶっ通しで、などという企画は発生しない。このままだとずっと観ないままかもと思い検索してみたが、どちらもプライムビデオでレンタルも買取も出来るようだ。円盤を買うのも悪くはないのだが、何分スペースを取られる。どうせあと何十年も生きるわけでもないのだから、息子たちが我々の死後に面倒に思うような買い物は、極力控えたいと思うこの頃。レンタルにすべきか購入にすべきか、思案中である。買い取って5回6回と見るのか、という問題に過ぎないのだが。
購入金額が全部伊坂氏の懐に入るというのなら、買うんだけどね。
ところで伊坂氏は映画の途中で少なくとも一度、必ずトイレのために席を立つらしい。ワタクシも最近歳のせいか、映画の最中にガブガブとカフェオレを飲んでいると、エンドロールが永遠のように感じられて思わず席を立ってしまうことがある。歳のせいだと悔しく思っていたのだが、伊坂氏がもっと酷いのであれば、気にしなくてもいいかな。

 

多すぎる、を振り返る 2010.12.28

最初の目論見がエッセイに見せかけたフィクションだったことを明かす。
え? あの面白い出逢いはフィクションなの?
いや、結局タクシーの章だけがフィクションだったらしい。なるほど、タクシーの時の読後感にワタクシも「さすがミステリー系の人だ」と書いていた。ワタクシにしてはなかなか正しく感じ取っていたようだ。
消えるお店が多すぎるの件、伊坂氏が立ち寄るのに便利で隠れ処的なところが次々店じまいしていく理由には納得。つまりは立地が良くて混んでいないところなので、潰れやすいのは当たり前だ。たしかに。
ワタクシも良く、あなたが行くお店がよく潰れる、とかみさんに言われる。これはマーフィーの法則と同じで、失敗体験しか記憶に残らないために他ならないと思っている。
ここ10年の間に、私が好きだったのに閉店してしまって残念だったお店の代表格と言えば、青梅のシカゴチキンというお店だったが、あれは明らかに店主が高齢になったためだ。ワタクシのせいにしてくれるな、かみさん。

 

峩々温泉で温泉仙人にあう 2007.11.29

さあ、次は当然大地震の後の話になるはずだ。2年前に危惧していたことが現実になってしまった、という話が有るのだろうと、趣味の悪い話ではあるが、期待してページをめくった。実際はスワイプした、だけど。
おい、遡ってるぞ。しかもずうずうしい猫と同じ日付ではないか。その号に2つも記事を載せていたということだろうか。
心配性で悲観的な伊坂氏は、さすがにあの大地震の後、いつもの調子で書くことが出来なくなった、ということだろうか。
ところで峩々温泉とはどこだ?
なんと、青根温泉の更に山奥ではないか。青根温泉不忘閣は二度ほど行ったし、そこでさえ秘湯を守る会だかの会員だったと思うのだが、それよりも更に更に山奥、か。行けないな、こりゃ。でも行ってみたい。

 

いずれまた 2011.4.13

挿絵はアーケードの下、2時47分ほどを指している時計だ。やはりそうなるか。
多くのミュージシャンなどがそうであったように、やはり伊坂氏も打ちひしがれていたようだ。そりゃあそうだろう。センシティブでクリエイティブな人間ほど打ちひしがれたはずだ。逆の属性を持つワタクシがそれほど打ちひしがれたりしなかったのだから、間違いない。

 

仙台文学館へのメッセージ 2011.4.18

再起動しかかっている人間のコメント。

 

震災のあと 2011.4.26

家族は無事で、家も残っている、と書いているものの、その時に余震が来て、割れた食器や風呂の水が溢れてびしょびしょになった廊下をタオルで拭く、とある。余震ですら、ワタクシなどには経験の無い被害があるのだから、家も残っているという最初の表現は、控え目すぎているはずだ。
いい大人である氏が泣いた話を次々さらけ出すのを読んで、ついついこちらも涙が出る。その挙げ句、
「役に立たない人間ほど、よく泣く」
うるせーな。

 

仙台のタウン誌へのコメント 2011.5.1

前向きなコメント。ちょっと無理している感じもあるかな。いや、街全体が、国全体が無理していた時期だったんだろう。

 

震災のこと 2011.8.1

地震からしばらく、他者が書いた本を手に取ることさえ出来なかったという。「娯楽とは、不安な生活の中では全く意味をなさないのだな、とつくづく分かった。」ほぼ同じ意味のことを小田和正も言っていたと思う。それは勘違いだと思うのだが、被災者でもエンターテイナーでも無いワタクシには、彼らの本当の気持ちは理解できない。

 

ブックモビール a bookmobile 2012.2.18

手元の辞書によると、移動図書館。ちなみにこのエッセイをワタクシはスマホで読んでいるのだが、同じスマホに辞書も入っているのは非常に有り難い。マルチタスク万歳。
牡鹿半島の山道を30分ほど行き、とある。とすると起点はおそらく女川になるだろうから、地図で調べると鮎川小学校というところだろうか。石巻から行っても同様に30分程度だし。確証は無いが。
この先の海のどこかに、オーデュボンの舞台となった架空の島があったはずだ。優午はどうしているだろうか。
あれ? 原田のお兄ちゃん? 主人公が伊坂氏では無い?どういうことだ? そうか、タイトルからして今までのと違うじゃないか。このタイトルのニュアンスは伊坂氏の小説のものじゃないか。そうか、ついに小説を書くに至った、ということをエッセイではなく、小説そのもので伝えたかったのか。奥ゆかしい奴め。
しかし渡邊は「この状況下で誰が小難しい小説など必要としているものか。そんなものが人を救うとでもいうのか」というスタンス。これこそが伊坂氏を捕えて放さなかった考え方だろう。
小説は面白い。なんとなく、オーデュボンの頃の伊坂氏の小説を思い起こさせる。荒唐無稽なのだが、心は温まる。こういう伊坂が読みたいんだ。

 

あとがき 2012.1.24

挿絵の写真はワタクシにもすぐにそれと分かる、青葉城政宗像と仙台の街並だ。牛タンが食べたくなる。
あとがきに拠れば作品をまとめるにあたってそこそこ文体などを手直ししたらしいが、いずれ来るであろう宮城県沖地震を心配する部分に関しては、そのまま掲載したらしい。
ブックモビールの渡邊と原田に関しては、実在のボランティアをモデルにしつつ、良くない人に変更したらしいが、そうでないと伊坂氏の小説にはなるまい。
ただ、見事な技を持つスリという設定にされると、例の4人組のうちの一人に重ねて読んでしまうのは、もうどうしようもない。

 

文庫版あとがき もしくは、見知らぬ知人が多すぎるIII 2015.6.25

とりあえず、ソンソン弁当箱をググりたくなる。

 

解説にかえて――対談『仙台ぐらし』の舞台裏

土方正志という人が荒蝦夷(あらえみし)という地元仙台の出版社の人だということは既に文中で示されている。
その土方さんと伊坂氏の対談が、解説として載っている。なんてお得な。
この二人が初めて出会った頃、まだ伊坂氏は会社員だったらしい。つまりまだ、斉藤和義を聴いてビビビと来る前だ。
この本は伊坂氏の日常から生まれてくるエッセイを集めたものだが、この対談で伊坂氏の日常がますます鮮明に見えてくる。伊坂ファンには申し分の無い対談だ。