粥村で聞いた話

鳥を見たり見なかったり食べちゃったり

カフカ童話集

“子どもの想像力を豊かにする”と銘打たれた童話集を読んでみた。まぁかみさんが勤務先の図書館から借りてきたので、ついでにワタクシも、というわけだが。

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子どもと言うより大人向けなのでは……?

童話と宣言されることでことでイソップ的に教訓めいたものが潜んでいるはずだと、無意識のうちに身構えて読んでしまう。だが少し読んでみて、全般に、隠された意味みたいなものを求めてはいけない作品なのだということは理解出来た。

平たく言えば、何が言いたいのか分からない ^^;

でもまぁ、ワタクシがどう読んでも誰にも迷惑はかけまい。はっはっは。

 

例えば『ある学会、その報告』という、この童話集の中ではわりと長い作品では、サルから人間になったその報告者の独白めいたものが延々続く。続くのだが……、続くだけだ ^^;

もちろんサルの視点などは面白いのだが、ワタクシとしては、

「人間になって演説しているつもりになっているが、実はその彼が、相変わらず動物園の檻の中で延々吠え続けているサルのままだった。学会に集まった人たちと彼が見なしている者達は、動物園のサルの檻の前で彼を見て嗤っている客たちだった」

という筒井的なエンディングが徐々に見えてきたつもりで読み進めていくのだが、そんなオチが用意されているわけではなく、実に肩透かしを食らったような終わりかたをする。

ではそのどんでん返しをしないことによって、カフカが素人を嘲笑って居るのかというと、全くそういう次元には居ないだろうと想像出来るのが、カフカなのかもしれない。

 

この童話集の中で唯一、元の作品を読んだことがあるのが最後に掲げられた『変身』だが、これが一番分かりやすい。これに比べると2,3ページで終わってしまう他の短編のほうが、凡人たるワタクシにとっては難解だ。

その他の作品の多くは首をかしげながら読むことになってしまったが、まぁこういう体験はあまり無いので、それはそれで面白い。

ただ、そうは言っても理解しよう、理解したいと願いながら読んでしまう凡人にとっては、なにやら禅問答じみた時間を過ごすことにもなりかねない。

だがそれでいいと思う。

そもそも読書なんていうものは読み手依存以外の何物でも無く、たとえ自分の読み方が偏向していて独りよがりであろうとも、それが自分が歩いてきた人生の縮図である。他人から強いられてそれを変更するのは、人生の舵取りを見知らぬ他人に預けるようなものだ。強めに言えばそのように考えているわけだが、ここまで頭の中に疑問符が並ぶようなときは、もちろん、解説を読んでみたくなる。

本作は元が子ども向けのためであろう、とても丁寧な解説が付属している。だからひとつの短編を読んではその解説を読む、という読み方が出来る。

他人の読み方を参照することによって、新しい世界が広がる可能性は、ある。また逆に、自分のちょっと変わった読み方を顧みて、自分(の読み方)ももしかすると捨てたもんじゃないかも、と、微笑みたくなるかもしれない。
今回ワタクシは、後者が多かった。人と違う感想・読み方は、決して悪いことではないはずだ。

ただ恥ずかしいからその具体的な内容は書かないでおく ^^;