粥村で聞いた話

鳥を見たり見なかったり食べちゃったり

だれもソクラスのことを笑えまい

いい歳こいて、未だにゲームをやめられないワタクシです。

まぁたまの息抜きはいいとして。

学生の頃、初めてハマった、と言えるのがドラゴンクエストIIIでした。後輩が遊んでいるのをチラ見しているうちに引き込まれ、それまで8bitパソコンしか持っていなかったのですが、ファミコンを買わねばいけない、なぜ今まで買わなかったのか、とばかりに新宿まで買いに行きました。おそらく、ヨドバシかさくらやだったはず。

さくらや」って何? と思うかた、単なる世代の違いです ^^;

そしてレベル99までを何度も何度もやり続けたのですが、今思ってもNPC(プレイヤーと関係ない、市井の人として描かれているキャラクタのことです)に面白みがあったなぁ、と思うことがあります。

今日、なんとなく思い出したのがそんな人のひとり、イシスという街に住む、ソクラスという男です。最初、勝手にソクラテスと読み間違えていたんですが、名前のモデルはソクラテスで間違いないと思います。

その彼が、こんなことを言うのです。

昼間のソクラス

こう言って、この場所から動きません。

(この画面はスマホ版です)

ここから動かないということはこういうゲームの場合、奥の階段の先に何か有るのが普通です。通常なら、何かのお宝です。

ですので、夜に出直すわけです。すると案の定、入り口にソクラスは居なくなっています。そして階段を上がってみると……。

夜のソクラス

スマホ版の場合、本棚から何かの本が見つかったことと思います。覚えてないけど。

しかし原典であるファミコン版の場合、何も手に入りません。

そして別の場所にいる神父が、こんなことを言います。

だれもソクラスのことを笑えまい

これ、なかなか深いですよね。

ウェブでちょっと調べてみると、いろんな意見が見られます。失礼して、いくつか拝借してみます。

  • 欲しいものが手に入ったら次のものが欲しくなるものだ
  • 何事にも夜と夜明けがある
  • 何も考えなくても人生は過ぎていく

面白いですね。

何がって、人によってこんなに受け取りかたが違うとは。

ワタクシは3番目の人と同じ方向性で、人生そのものを表していると、このゲームを最初にプレイした学生時代から思いました。

授業が始まれば、授業が終わるのを待つ。

学生実験が始まれば、実験が終わるのを待つ。

試験期間が始まれば、試験が終わるのを待つ。

社会人になっても同じでした。

仕事が始まれば、終業の合図を待つ。

月曜になれば、金曜を待つ。

9月が始まれば、10月を待つ。

1年が始まれば、1年が終わるのを待つ。

 

もちろん、その間もそれなりに仕事に精を出しているわけですが、見方を変えればやはり今が過ぎ去るのを待っていることが多々あります。

そして、最近では定年を待っている部分が、確かにあります。

つまり、人生を通して、人生が終わるのを待っている、とも言えます。

こんな重苦しいことを書くつもりで書き始めたのではないのですが、「人生とはそうしたものかも知れぬ……」とは確かに思うことがあります。

 

でも、その中で楽しみを見つけていくことこそ、人生だと思いますよ? ^^;